2017年07月09日

精神科読本21「精神療法のはじまり」

精神科読本21「精神療法のはじまり」(2017年改訂版)
                 精神療法のはじまり
T.はじめに
 皆さんは精神科や心療内科で行なわれる治療にはどのようなものがあると思いますか?多くの方は、主治医との対話による治療、巷ではカウンセリングと呼ばれていますが、を思い浮かべることでしょう。それ以外に、クスリを使って不安やうつ症状を取り除く薬物治療、家族療法、集団精神療法、社会療法(ショートケア、デイケア、ナイトホスピタル)、作業療法、などがあります。
 カウンセリングとは、主治医にいろいろ困っていることを相談して専門的な知識や技術によって心理的問題を解消する治療法の一つですが、精神科では「精神療法」と呼ばれています。カウンセリングと精神療法はその起源は同じものですが、例えると、ポップスとロック程に違いがあります。もともとは日常生活で口ずさまれていた歌が宗教音楽へとして発展し、今日のクラシックからジャズ、ロック、フォーク、演歌、ポップスへと枝分かれしていったように、精神療法も様変わりしています。
 本シリーズでは、精神科の臨床でもっとも重要な「精神療法のはじまり」について解説していこうと思っています。今回は、今日の形になるまでの原始的な精神療法について述べる予定です。機会があれば、いずれ精神療法を科学的な学問へと進化させたフロイトの精神分析とその後の発展について述べたいと思います。
U.原始的精神療法
 21世紀に入って間もない頃だったと記憶しているのですが、九州のある地域で、少女に狐が憑いていると言って、その土地の霊能者から除霊のために棒で叩かれて亡くなるという痛ましい事件が起きました。この類の事件は耳新しいことではありません。エレンベルガーは世界各地の精神の病の起こり方と治し方を5つに分類して表1のようにまとめました(コピペみたいと批判されるかもしれませんが、本論の大部分がエレンベルガー著『無意識の発見』に依っています)。
 九州で起きた事件は3に示す考え方で、少女に狐が憑いたのでその狐を追い出すために少女の身体を叩くといったやり方は実は世界各地で行われる標準的な治療法でもあったのです。1970年代にメガヒットした『エクソシスト』という悪魔払いの映画も同列のものですし、良質のコーヒー豆の産地である南米のグアテマラでは、奥地のジャングルに行かずとも、今日でも原始的な方法で精神の病を治していると聞きます。平安時代の日本人は何よりも「祟り」を恐れていました。それを扱ったのが陰陽師です。21世紀の今日でも、沖縄のユタ、恐山のイタコ、さらには各地に伝わるシャーマニズムに基づく信仰があり、悩める者に心理的な救い、癒しをもたらしてくれています。これらは、今日の精神科で行なわれる精神療法の原始的な形と言えます。
  表1
        疾病説                     治療法
  1 病気とは病気という物体が身体に侵入したためである 病気という物体を摘出する

  2 霊魂が行方不明である           魂の所在を突き止め、招魂し、もとに納め戻す

  3 悪霊が侵入したためである         祓魔術をする。外部から侵入した悪霊を機械的に摘出                          除去する。悪霊を他の生物に移す
  4 タブーを破ったためである            告解(懺悔)し、神の怒りを鎮める

  5 呪術によるものである                対抗呪術を行う

V.メスメル(1734−1815)の登場
 1.どのような時代か
 上記の疾病の考え方と治し方は、暗黒の中世期では主流を占めていましたが、科学の発展とともに廃れていきます。21世紀の今日まで細々と受け継がれているのは、我々の心の奥に潜んでいる原始的思考の現れともいえます。この原始的精神療法から大きな発展をなしたのはメスメルの貢献によるものが大きい。
メスメルはモーツアルトが活躍した時代の人です。1768年、モーツアルトが12歳のとき、お金持ちの女性と結婚した商人メスメルは自邸で上演させるために一幕物のオペラの作曲をモーツアルトに依頼し、モーツアルトの最初のオペラが完成しています。
 2.メスメルの生立ち
 エレンベルガー著『無意識の発見』を参考にメスメルの生い立ちを追ってみましょう。1734年にドイツとスイスにまたがるコンスタンツ湖のドイツ領岸で生まれています。18歳でイエズス会神学校に入学し、32歳のときに「人体疾患に及ぼす惑星の影響について」という論文で学位をとっています。1767年貴族出身で富裕な未亡人と結婚し、ウイーンで内科系医師として開業。洗練された社交界の人となり、各種芸術のパトロンにおさまっています。モーツアルトの父レオポルトによると「庭は比較するもののない素晴らしさで、見事な並木道がいくつもあり、立派な彫像がこれまたいくつもあり、劇場が一つ、鳥小屋と鳩小屋が各々一つ、いちばんの高みには、見晴らしの東屋がある」とその豪奢な生活ぶりを語っています。
 3.磁気治療
 1774年(40歳):内科医だったメスメルは、27歳のエスターリーン嬢の治療を始めて、クリーゼと天体運動の周期との関連(と、彼は信じたのです)を発見しました。クリーゼとは英語のcrisisのドイツ語読みで、病状の「分利」を意味します。フランス語読みはクリーズで、文庫クセジュ『催眠と暗示』からその様子を描写してみましょう。
 クリーズの様子:目がうつろになり、のどが延びあがる。頭が倒れる。震える者あり、泣く者あり、笑う者あり、つばを吐く者あり、叫ぶ者あり、うめく者あり、息の詰まる者あり、めまいのする者あり、寝込む者あり、恍惚にひたる者あり、ひそかに激情をもつ者がある。それから叫び声、首しめ、ひきつけ運動、捻転、とんぼ返りが始まる。とくに女は飛び掛りあう。顔は赤らみ、あるいは青ざめ、形相を一変し、髪を打ちなびかせ、あるいはこめかみにまといつかせ、彼女らは抱き合ったり、押し合ったり、地上に転げたり、壁に頭をぶつけたがったりする。
 今日では、未解決の葛藤によって生じた情動が、言葉を発する以外のあらゆる出口を見つけてそこから飛び出そうとしている状態と理解できます。その出口が意識消失、自律神経や筋肉系への表出、あるいは言葉にならない呻き声、などなわけです。ホースの出口を狭めれば狭める程水の勢いも強いように、情動を抑圧すればするほど症状の出方も激しくなるのです。なぜ、抑圧するかというと、言葉で表出することが当時の「文化(常識)」では認められなかったからです。
 その頃、イギリスの医師ジェムス・グレイハムという人が磁石を用いて病気を治していました。磁気が神秘的な治癒力をもつとして、ロンドンに奇妙な神殿を建て、医療的に用いていたのです。胡散臭い話ですが、暗示や、催眠的なものが心因的な身体の不調に最初に用いられた最初の試みでした。
それでメスメルは、患者に鉄分を含む薬を飲ませて、磁石を胃と両足にあてがってみました。その時患者は、自分の身体の中を不思議な流体が足の方に向かって流れていく、と言って症状が消失したのです。磁石は動物磁気を強化し作用の方向性を与える補助手段に過ぎないのであって、自分の身体の中に蓄積していた流体(動物磁気)が患者に磁気的流れを生じた、とメスメルは考えました。「私は神秘的な流体すなわち動物磁気を身に帯びている」と直感したのです。モーツアルト作曲オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』では馬蹄型のメスメルの磁石でヒ素中毒を治すシーンが演じられます(この原稿も『コジ・ファン・トゥッテ』を聞きながら書いています)。
 1776年には「惑星の影響について」という小冊子を刊行して、「人間はすべて星の影響の下にあり、この影響は宇宙をみたす磁気を帯びた液体(エーテル)のたえざる流れによって働き、われわれの内部でこの液体がある調和と均衡を保つことによって、われわれは種々の病から守られる」と考えました。メスメルは、この液体の不均衡が種々の病を惹起すると考え、磁気術は患者との接触により、またはある距離を隔てて患者の体内へこの磁気を帯びた液体をより多く流れ込ませたり、またはこれを患者の身体から外へ流れさせたりすることによって必要なバランスを回復させる、と考えたのです。
 記録によると、メスメルが指を触れるだけで痛みを感じ、ある者は声が出なくなったといいます。磁気がかからない患者がいることも知っていて、その際には「自分の医者にかかれ」と言ったそうです。メスメルは磁気術者と患者とのあいだに「交流=ラポールrapport、磁気術師からの被術者への意思の流れを意味する」の存在を発見していたのです。特に最初に治療をする場合には、身体接触を必要としました。メスメルは患者とのあいだにラポールを得るためにさまざまな手法を用いました。たとえば、自分の両膝を患者の両膝に押しつけたり、患者の両親指と自分のそれをこすり合わせたりしました。人間に磁気をかける方法は、直接法と間接法の二つがあって、直接法は術者が背を北に向け、被術者に面して膝を付き合わせ、目を見合わせて腰掛けます。接触の仕方はいろいろ自由に任せました。間接法では磁気を集める小さな鉄棒やガラス棒を用いました。また術者があらかじめ木やピアノに磁気をかけておくことも行いました。ピアノの音が磁気を運ぶと考えられたのです。
 1775年、カトリック神父のエクソシスト(悪魔祓い師)ガスナーとの対決で勝利しました。理性を重視した啓蒙主義が後押しした結果でもあるのですが、メスメルも「ガスナーは決してハッタリ屋ではなく、ただそれと知らずに動物磁気で患者たちを治していただけだ」と感想を述べています。
評判を得たメスメルは盲目の音楽家である少女パラディの治療を担当することになりました。彼女は極めて才能ある音楽家で皇后自らの保護を受けていました。磁気をかけられて目が見えるようになるのですが、医学委員会は「患者は、メスメルが目の前にいる時だけ目が見える、と言い張る」と指摘し、メスメルと両親とのあいだが急速にまずくなって再び目が見えなくなりました。精神科読本4で解説しましたように、眼科的には異常はないのですが、心理的葛藤によって目が見えなくなることをヒステリー症状と言います。メスメルは治すことが出来なくて落胆しますが、一度は見えるようになったのに最後は治療失敗に終わった理由について「目が見えるようになると女帝からの恩恵を受けられなくなる」と、20世紀の精神分析で明らかになる「疾病利得抵抗」についても気づいていました。
 4.ウイーン医学界の冷たい反応とパリへの旅立ち
 1778年(33歳)ウイーンでの評判がガタ落ちしたメスメルはパリに発ちました。同じころ、フィリップ・ピネルもパリにやって来ました。ピネルはフランス革命時代の1793年にビセートルで長年鎖につながれていた精神障害者を解放したことで有名な人です。パリは国王ルイ十六世と皇后マリー・アントワネットの統治下にあって、政府は不安定、国家財政は破滅寸前でした。
メスメルの診療所はパリでも繁盛しました。そのため患者数の増加に合わせて、一度に多人数に施す集団治療を始めました。これが有名なバケー(磁気桶)です。
 部屋の中央に高さ45pの容器があり、この磁気桶の周りに約20人が座ります。人数分の磁気桶の小孔に直角に曲がった鉄棒を入れ、鉄棒の先を患者の身体に宛がいます。桶の周りに患者が座り、メスメルが近づくと患者は発作を起こすのです。野外では磁気化した大木を使って貧しい人達用の野外集団療法を始めました。木が磁気化することはありえない話ですので、他の医師たちはインチキ医者だといって非難しました。
1784年、ルイ十六世は審査委員会をつくって弟子のデスメロンに磁気治療の実験をおこないました。委員会は「磁気流体なるものが物理的に存在する証拠は全然見当たらなかった。ただ、治療効果が全然ないとまでは言えなく、それは想像の力に帰せられた」と結果を発表しました。さらには、磁気化された女性患者は男性磁気師に対して性的魅力を及ぼすために派生する危険性もあるという報告も追加されました。素晴らしい指摘です。ルイ 十六世が委員会をつくった背景には、素人療法家のなかで患者と性的関係をもつに至る者がいたからです。
そして磁気はサロンの遊びになっていきました。こうした新参の磁気術師たちは、クリーズと愛情転移を誘発すると、それに対して何らかのアクティング・アウトで応えました。このような事実は警察の知るところとなり、貴族階級と市民階級の良俗を損なうものとなったのです。先のピネルも興味津々とバケーに2ヶ月ほど通い、「その結果ちょっとした艶事があったよ。理性を失っていくと、私も夫人たちに磁気術というなかなか魅力のある操作を一寸したくなる」と皮肉っています。
 こうしてメスメルは1785年にパリから逃亡し忘れられていきますが、メスメルがはじめた運動は弟子のピュイゼギュールに受け継がれていきました。
W.ピュイゼギュールと新メスメリズム
 1.ピュイゼギュール:磁気睡眠=人工的夢遊病の発見
 1784年:パリを去ったメスメルのあと、貴族であるピュイゼギュール候がある発見をしました。下男の息子ラースという23歳の農民は喘息を患っていました。磁気をかけると、不思議な形のクリーズを示しました。他の患者のように痙攣や運動錯乱もなく、逆に、一種奇妙な睡眠に入ったのです。この状態は通常の覚醒状態よりさらに意識が明晰でした。声を出して喋り、いろいろな質問に答え、普段よりずっと頭の回転がよくなったのです。すなわち、寝入っているのだがなお活動性は残っていて、術者の命令に従って行動できるという状態が、起こりうることを発見したのです。興味深いことに、クリーズが終わるとクリーズのときの記憶を覚えていません。そして術をかけるにはなにも直接身体に触れる必要はなく、見つめるとか、身振りで示すとか、意思を伝えるとかするだけで十分だということが分かったのです。他の患者にも試してみて数人に成功を収めました。彼らの中には、この状態に入ると自分の病気を自分で診断し、今後の経過を予見し、自分の治療法を決定する能力を見せたのです。患者は増え集団治療もおこなうことになりました。
新式の治療法は二つの特徴がありました。一つは、後にブレイドが「催眠」となづけた現象です。一見覚醒状態で、磁気術者とラポールを持ち、命ぜられるままに実行し、クリーズ終了後は完全健忘を残す。第二は、一部の患者が示す透見性です。奇蹟的治癒は至るところで模倣されました。ピュイゼギュールの新式磁気術は急速に広まりました。彼は講義のなかで以下のように語っています。
「私は信じています。私の中に一つの力の存在するのを。この信念から発するのです。私がこの力を使おうという意思のことです。動物磁気の原理全部は二語の中に集約されます。信じよ、そして意思せよ、です」
 2.メスメリズムの拡散
 フランス革命後、動物磁気学はフランス・ドイツで発展します。
 1)フランス:1850年代に絶頂期を迎え、その後衰退していく。 
 ドゥルーズは、ピュイゼギュールのもっとも高名な弟子です。人工的に引き起こされた夢遊病中に生じる諸現象を正確に記録し、いわゆる超自然的現象に懐疑的で、磁気術には種々の危険があると警告しました。彼も性愛的な問題は避けられないと断言しました。ドゥルーズは自分の行なう磁気術に対してとても冷静でその限界もわきまえていました。その著書の中で「私は磁気術によってすべての病気が治るなどとは少しも考えない。むしろ、磁気術で治るのはごくわずかの病気でしかないこと、治癒せず軽快するだけである場合が実に多いこと、磁気術はときには有害でもありうることを確信している」と記載しました。しかも治療機序について「治療効果を上げるために必要な条件は、磁化される者が何もせず、何も考えないこと、つまり受動的であるということである」と述べているくだりは優れた観察者でもあります。
 1813年:ポルトガル人の司祭ファリア師(ナンシー学派の祖)は治療者からは特別な力は出ておらず、すべては患者の精神のなかでおきると主張しました。技術面での改革としては、患者を眠らせるために視線を一つの対象に固定させる方法(後にブレイドが用いる)と言語的暗示を与える方法(リエボーがおこなった)があり、ファリア師は命令口調で「眠りなさい」、ついで「目覚めなさい」と命じました。この頃には、夢遊病(催眠)状態に導くやり方が定式化したのです。
 2)ドイツ
 磁気術をドイツはロマン主義の影響もあって受け入れました。大学にメスメリズムの講座が設けられたほどでした。
 詩人で医師でもあるケルナーは、ボツリヌス菌による食中毒を記載した最初の人ですが、12歳のときに磁気術師に神経症を治してもらいました。祓魔術と磁気術の混合法で憑依や夢遊病やいわゆる超自然現象に関心を持っていました。
 1826年彼は患者フリーデリケ・ハウフェと出会います。彼女は子どもの頃から幻視や予感があった。学校には行かなかったので読むものと言えば聖書と賛美歌だけでした。19歳のときに両親が愛していない男と婚約させました。その日はたまたま崇敬する説教者が埋葬される日でもあったのです。葬式のあいだに、彼女は“目に見えるままの世界に関しては死に”、“内面の人生”が始まりました。彼女は現実と空想という二つの世界を解離させたまた生きることになるのです。その後彼女は病気になり、痙攣、全身硬直、出血、発熱を呈して、医師も民間治療者も治すことができなくなって、ケルナー医院に運ばれてきました。磁気(つまり催眠)状態の中で彼女は多重人格、ポルターガイストと同じような行動をとりました。千里眼は誰も知らない言葉で喋ったと言います。
しかし1850年以降は、実証主義、科学的合理主義のもとで磁気術の影響は急速に遠のいていきました。
 3)イギリス
 1840年から1850年のあいだにスコットランド人外科医ブレイドの活躍もあって発展しました。磁気術の手業は不必要で代わりに患者の視線を輝く物体に固定させるという技法を用いました。そして催眠術hypnotismというより適切な術語を作り、医学サークルに受け入れさせました。外科医アザンは麻酔の代わりに催眠術を用いました。しかし、より確実性の高いクロロフォルムの出現で、催眠麻酔の流行は終わりを告げ、ブレイドの研究は廃れていくことになります。そして、イギリスでも催眠術は廃れていきましたがカラーセラピーや植物セラピーへと受け継がれて、現在に至っています。
 4)アメリカ:心霊術の勃興
 アメリカにもメスメリズムは広がりました。ヒステリー性運動麻痺を磁気術で治したりすることが公衆の前でおこなわれました。しかしアメリカではもう一つの流れもありました。
1620年、分離派ピューリタンと言われているピルグリムファーザーズ(巡礼)がメイフラワー号でアメリカのケープゴッドへ移りました。そして、アメリカ独立戦争が1775年から1783年にかけて起こり、新国家の指導者は国定宗教をどれにするか悩みました。1791年、全国民に信教の自由を認めるという国家憲法が成立し、多数の信教派が出現しました。
 1840年から1850年にかけてのアメリカ合衆国は、人口こそ2000万人程度でしたが、国民は精力的で、大多数が小さな街区(ブロック)に住んでいました。牧師も教会員も宗派から宗派への改宗が頻繁で、小宗派(セクト)が多数生じました。
 1848年、心霊科学(スピチュアリズムspiritualism)が興りました。事の始まりはニューヨーク州のハインズヴィルという村で事件が起きた事件がきっかけです。以下に、『無意識の発見』から引用します。
3年間空き家になっていた貸家に1847年12月、フォックスという家族が入居してきました。住み始めるとすぐに、物をたたくような音が地下室や寝室で鳴るようになったといいます。ラップ音と言います。さらには子どもたちが冷たい手で顔をなでられたり、家具を動かすような音が聞こえたりもするようになりました。1848年3月、いつもの音に加え、窓の戸が激しく鳴った。妹のケイトが音のするほうに向かって、「お化けさん、私のするようにしてごらん」と指を鳴らしました。するとそれにあわせて同じ数の音が返ってきました。姉のマーガレットが同じようにして、手を4回叩いた。やはり4回返ってきました。それを見ていた母親が「10、数えてみて」と言うと、ラップ音が10回返ってきました。さらに娘の年を尋ねると都市の数だけのラップ音が鳴った。いろいろ質問するとすべてに答えたと言います。それから隣の住民も加わって12、13人で同じような問答がおこなわれました。アルファベットを順に読み上げて途中でラップ音を鳴らすと言うことを誰かが考え出して、それで様々な質問をしていきました。その結果名前を聞き出すことができて、霊と交信するための暗号システムまで発明されました。
 音の主は、31歳の男性で、前にこの家を借りていた人に5年前の0時に殺されました。首を切り落とされ、その翌日の夜、地下室3メートルの深さに埋められたのです。この事件は新聞に載り、あっという間にヨーロッパにも広まりました。地下水が噴出して首は見つからなかったのですが、夏の乾燥期に再び発掘がおこなわれ毛髪や頭蓋骨が見つかりました。この新運動を最初に支持し、積極的に動いた人たちの中にメスメリストたちの姿があったのです。この心霊術の動きは1852年にはヨーロッパにまで広がっていきました。
 心霊術師が導入した自動書字は心理学者の無意識を知る手がかりとなりました。心霊術は人間の心理を知る手がかりを心理学者や精神病理学者に与えるきっかけともなったのです。つまり、心への接近方法を与えたわけです。ナンシー学派やサルペトリエール学派が起きたのもこうした動きによるものでした。
 ところが、それから56年後の1904年11月23日に、地下室の壁の奥から、身体の骨と行商人用のブリキの荷物入れが発見されました。これがボストン・ジャーナルをはじめとした新聞に報じられ、死後の霊が地上にいることを研究する心霊科学が始まった事件となったのです。
 余談ですが、私も若い頃自動書字の経験があります。ある患者さんにメモ紙を渡して、お家の様子を説明してもらっている内に彼女の様子が急変し、ぶつぶつと独り言を言いながら、メモ紙にある文章を書き綴っていったのです。その内容が、彼女が私に伝えたいけど口にすることが許されない内容だったのです。
 今日の自由世界と違って、当時は、倫理的・慣習的に口にすることが許されないことが多かったのでしょう。ですので、病んでいる人の本音(意識されない無意識のこころ)を自動書字によって知ることで、言い換えると言葉にすることで患者さんの葛藤が明らかになり、症状として流れていた精神エネルギーが自由になって症状がなくなっていたわけなのです。
X ナンシー学派とサルペトリエール学派
 1.ナンシー学派
 1860年−1880年代は、磁気術と催眠術は悪評にまみれた時代。
 リエボーは、そのなかであえて公然と催眠術を20年間も無料でおこなったので、インチキ医者で馬鹿だと批判されました。
 ベルネームは、ナンシー学派のリーダーで、リエボーの奇蹟的治療の噂を聞いて弟子
入りしました。この高名な内科の教授の行動は一つの事件でした。ベルネームはリエボーの業績を医学界にひろく紹介しました。ちょうどシャルコーが催眠術に関する論文をアカデミーに発表した直後で、彼は「催眠はヒステリーに特有のものではなく、暗示の結果だ」と主張してシャルコーに反対しました。被暗示性を“観念を行動に変形する適正”と定義し、人間がすべて持っている性質で、ただ程度の差があるだけだ、と考えました。しかし時とともに催眠術を使わなくなり、催眠術によって得られるような効果は覚醒状態における暗示でも得られると主張するようになりました。ナンシー学派はこの心理的プロセスを「精神療法psychotherapy」と呼びました。
 やっと精神科医の対話による治療、すなわち「精神療法」という用語が産声を上げたのです。その中には暗示、説得、是認、指示、忠告、支持、解釈、などといった技法内容が含まれますが、基本にはこの暗示を成立させる患者と医師との間の「信頼感」が重要です。転倒して泣いている子どもを母親は抱えあげて、「痛い痛いの飛んでいけ」と唱えると、痛みは和らいで子どもは泣き止みます。この子どもの母親への信頼が暗示の始まりなのです。逆に言うと、信頼の置けない主治医から「大丈夫」と言われても安心できないのは必然的なことですね。
 2.サルペトリエール学派
 シャルコーは1825年にパリに生まれました。36歳のとき転機が訪れます。彼はサルペトリエール病院の一つの病棟の医長に指名され、ここでてんかん患者の痙攣を模倣するヒステリー患者の観察をおこなって、1878年に催眠術研究に着手したのです。その成果は1882年にアカデミーに発表されました。「催眠状態は嗜眠、カタレプシー、夢中遊行の三段階を経て展開する」と主張して、アカデミーに催眠術を受け入れさせたのです。外傷性麻痺についての研究のなかで、麻痺を催眠下で消失させたり、催眠にかかりやすい患者を選んで、「あなたの腕は、目が醒めかけのときに私が背中をポンと叩くと途端に麻痺するでしょう」と暗示をかけました。背中を叩かれた途端に患者は外傷後麻痺と同じ形の麻痺を起こしたのです。シャルコーは催眠術の現象はヒステリーに悩む者においてのみ惹き起こされ、それ自体異常性の現われであると考えました。この点でナンシー学派から非難されることになります。
 1893年、シャルコーの死んだ年には催眠研究は衰退を見せはじめました。催眠療法は患者の尊厳を損なう治療法だという非難の波が押し寄せたのです。暗示でさえ、それが患者の人格の自動的な部分、したがって劣った部分に働きかけるという理由で咎められました。その先鋒はかつてベルネームの弟子のデュボアで、彼は暗示を非道徳で危険だとみなし、暗示の代わりに「説得」を用いて、説得は患者の意思に呼びかける、理性的な手法だと主張しました。しかし、感情によって生まれる信頼の雰囲気がなければ、つまり患者に自信をもたらす情動の助けがなければ、精神療法は可能でないというデジュリーヌの見解もありました。
Y.日本では
 江戸時代中期から後期にかけての精神疾患の治療は一部の漢方医たちが精神病の診断や治療に取り組み始めました。と同時に蘭学が流入し、オランダ医学書から多くの精神科的病名や症状名が翻訳され紹介された時代でもあります。中でも神経症の治療については、和田東郭(1744−1803)の「移精変気」が有名です。和田は摂津高槻の人で、癲狂(狂気)を癲と狂とに分けました。癲の広義のものは、神経症、小児驚、てんかん、居眠り病、狭義精神病を含んでいました。症状が生起し消退する疾患の総称が「癇」です。狭義の癇は肝疾ともいい、現今の精神神経症、ヒステリー、神経質に相当します。狂は狭義の精神病にあたります。癇に対して和田は、一種の説得療法、移精変気の術、睡眠療法(おおいに運動させて、疲れたところに、温めていた酒を飲ませて、熟睡させる)、薬物治療、灸を用いました。それを徹底して活用したのが東北白石の医師今泉玄佑です。今泉は嘉永3年(1850年)に『療治夜話』を著し、その中で独自の「移精変気」の法を述べました。移精変気とは、精神を移し変え、心気を変え改める、ということです。「心に迷いを生じたために病気になることがある。その迷いをつきつめ、それを患者に分からせて迷いを解き、病気を治す方法が移精変気の法である」という考え方はとても今日的です。
 症例:59歳の大工の後家。8人の子どものうち7人を流行病で次々に亡くし、残った1人も病気でなくなったばかり。それ以来、めっきり弱り、鬱々と思い悩み、身の不幸を嘆いては泣いていた。毎日、「死にそうだ」と言っては騒ぎ、食欲もない。呼ばれて診察した和田は「このようなことで騒ぎたてるとは、何たる愚か者か」と一喝した。一喝して、自分の病気に向けていた注意を転向させた。すると患者はそれまで閉じていた目を開けた。すかさず、「生死は皆、天命である。人間は遠からず死ぬことに決まっているのだが、その決まったことにうろたえ、騒ぐものではない。病気になるのは祖先の恩を忘れ、わがままに自分の気を迷わすからなるのだ」と言い聞かせた。その結果、症状は消失したのです。
Z.現代
 その後、催眠術の末裔たちは、再び20世紀になってトランスパーソナル心理学としてアメリカで登場します。トランスパーソナル心理学は、1960年アメリカ西海岸で誕生しました。トランス心理学のトランスはtrans越えるという意味で、トランス(没我的な恍惚状態)状態のtranceとは違います。スピリチュアリティspiritualityと現代心理学の統合を目指す心理学です。人間存在を全体的な存在として、とりわけそのスピリチュアルな側面を重視します。アイデンティティや自己感覚が宇宙大に拡張していく、神秘体験などのトランスパーソナルな体験の価値を積極的に認めていくのです。エクスタシー、至高体験、神秘体験、超越体験やシャーマニズムを再評価するので、科学からはどんどん離れて行くので医療の領域では行なわれません。
催眠術から離れて今日の精神療法の土台を作ったフロイトは、その内容については精神科読本30『フロイトの精神分析』で述べる予定ですが、心霊現象を思考の全能の所産とみなし、この思考の全能はアニミズムや原始的な心性によるもので、この原始的な心性を合理的な自我と知性によって乗り越えなければならないと考えました。1921年のキャリントン宛の手紙には「心理現象を非科学的であるとか、信じるに足りないものであるとか、ひいては危険なものであるとして、頭から否定することも非科学的である。ただ、私はこの領域にはまったくの素人なので、臨床家として発言する柄ではない。それだけに、心霊術とは縁もゆかりもない精神分析と、このまだ未制服の学問分野とを峻別することが私にとって重要である」と、精神分析を科学として扱っていこうとする強い主張が窺えます。

参考文献
1.フロイト:『精神分析運動の歴史について(1914)』日本教文社、1969.
2.アンリ・エレンベルガー:『無意識の発見上(1970)』弘文堂、1980.
3.L.シェルトーク、R.ド・ソシュール:『精神分析学の誕生―メスメルからフロイトへ―(1973)』岩波書店、1987.
posted by 川谷大治 at 15:06| Comment(0) | 日記
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