精神科読本14『思春期における自己否定という罠』(2017年改訂版)
思春期における自己否定という罠
T.思春期青年期の精神病理
1980年頃から思春期やせ症および過食症、リストカット症候群、登校拒否症、家庭内暴力、ボーダーラインと呼ばれる疾患が社会問題化してきました。それまでは精神科臨床で若者が受診するのは統合失調症、躁うつ病、そして対人恐怖症が中心でした。21世紀の今日では、以下の疾患が思春期臨床で問題になっています。
1.統合失調症:100年前と同じ120人に1人発症。軽症化。
2.双極性気分障碍(躁うつ病):軽躁状態を病的と考えるかどうか
3.思春期青年期のうつ病の増加。
4.アディクション(嗜癖):ある習慣への強迫的な執着と依存。
1)物質:アルコール依存症,薬物依存,摂食障害
2)行為過程:ギャンブル依存症,買い物依存症,家庭内暴力,ネット依存,
ドメスティックバイオレンス,性依存,リストカット症候群
3)関係:共依存(人に依存し世話を焼く)
=アルコール依存症の妻,家庭内暴力の母親,虐待夫の妻
5.境界性パーソナリティ障害
6.パニック障害,強迫障害,適応障害,心的外傷後ストレス障害など
7.発達障碍児のパーソナリティ発達:いずれ扱う予定です。
二重下線が本論で扱っていく病態です。これら疾患をもつ若者の最大の問題点は,思春期における「自己否定」の先に見えてくる社会化された理想的な対象を描き出せない,ことです。そのため,同世代の若者に対して,恥と劣等感の意識が強く,社会に出て行くのに臆病になっています。自分の存在価値を他者とのあいだで確かめることができないために,自分を誇れることも自慢する場所も見出せません。唯一,空想世界だけが自分を裏切らない世界になります。そしてテレビゲーム,買い物,食べ物に嵌っていくのです。なかには自分の身体に傷をつけるといった被虐的な行為に嵌ってしまう若い女性も多い。
彼らの内的世界の自己像は肥大し誇大化しています。人一倍プライドが高くなっているのです。しかしそれは自分だけの世界に限定されているので,現実に触れると途端に,落ち込み,空虚感,孤独感に苛まされ,さらには自己愛的怒りを抑えることができなくなり,糸の切れた凧のように,どこへ流されていくのか自分でも分からない状態に陥るのです。とても辛い心理的状態です。
どうしてこのような状態に陥ってしまったのか,そしてその状態から脱却するにはどのような方策があるのかを述べることが本論の目的です。家族はどのような援助ができるのかを分かりやすく述べて行こうと思います。
U.自己否定という罠
1.「自我理想Ich ideal」と「理想自我Ideal ich」
精神分析では社会性を持った道徳的価値規範を取り入れた自己のあり方を「自我理想」と呼びます。自分本位の願望や自己愛を克己した後に形成される,より高い,より社会性のある人間像です。一方,自分の気に入った自己愛そのものの自己像を「理想自我」と呼びます。「理想自我」は,自分の中で主観的に作り上げられたもので,幼い頃の自己イメージと一致します。勉強がよくできて,みんなに秀才だとちやほやされる自分,美しくみんなに美人だといって褒められる自分,権力をもつ自分,名声に輝く自分,尊敬され・賞賛される自分,誰もが心に思い描く,心地よい,楽しい,素晴らしい自分が「理想自我」なのです。子どもの頃に鏡に映し出される自分の姿がその原型です。要するに,「自我理想」は社会的自分を「理想自我」はパーソナルな自分を表しているとも言えます。
2.「自我理想」は「理想自我」の否定の過程で形成される=子どもから大人へ
自己中心的なパーソナルな自己愛を一度否定した上に成り立つ「自我理想」は,自己中心的な欲望を否定し,自分のアイデンティティーのため,国家社会のため,学問のため,自分を越えた何かに身を捧げる人間としてのあるべき姿です。子どもから大人への移行期である思春期青年期にこの過程が進みます。ところが,この過程がうまくいかない若者が増えているのです。いつまでも「理想自我」にしがみついている若者たち,自己否定に嵌って「自我理想」が見えてこない若者たちです。前者は引きこもり青年に代表され,後者はリストカット,過食・嘔吐症,境界性パーソナリティ障害,買物依存症に代表されます。子どもから大人への過程が進行しないので,大人になるのが恐ろしく子どものままでいたいのです。
最近の若者が,子どもっぽい自己を否定した上に成り立つ社会的な理想の姿が描けないのはどうしてなのでしょうか。いろいろ原因が浮かんできます。もともと一個の独立した人間として生まれてきたのに,母親が子どもを溺愛し「自分の子ども」として支配してきたために,子どもはいつまでも母親の庇護のもとで子どもでありたいと願います。面倒な人間関係は避けて,自分の思い通りになる母子関係を現実社会に求めるために打たれ弱い,傷つきやすいパーソナリティが形成されているのです。
母親からは分離できても理想とする姿が見つからないこともあります。その原因は社会の変化にあります。例えば,少なくとも戦前までの長男は跡継ぎとして生まれ,将来の姿ははっきりしていました。しかし,現代では,親と同じ仕事をすることを「帰りが遅くてたいへんそう」,「責任が重そう」と言って80%の子どもたちは拒否しています。父親の背中が将来の自己像にならないのであれば子どもたちは何を指針に成長していくのでしょうか。私が小学生の頃,どこの学校の校庭にも二宮金次郎の銅像が立っていました。薪を背負って本を読みながら歩いている姿は今でも心に深く刻まれています。あの二宮金次郎の銅像が今はどこにもありません。あるのはスマフォを操作しながら歩く若者たちです。
どこの家にも「家訓」がありました。「正直であれ」,「贅沢はするな」,「他人様に迷惑をかけるな」などと家庭で道徳教育がなされていました。今は廃れました。あるのは狡賢い処世訓です。「誰にも迷惑かけなければ何をしてもいい」,「ばれなければ何をしてもよい」と大人は子どもに本気で教えているのです。このような社会で子どもに「自我理想」を求めても無理な話です。今の子どもたちにはクラーク博士の「少年よ,大志を抱け」は嘘っぱちに聞こえるでしょう。あるいは,子どもの心を鼓舞するのではなく重くのしかかるかも知れません。臆病になっている引きこもり青年に将来を熱く語りかけても,彼らの心には響かないのと同じです。
また,自己否定する過程で「自己否定」という罠に嵌ってしまうために,「自我理想」を描けない若者もいます。彼らの話しに耳を傾けていると,自己否定が未来の「自我理想」を求めたものでないことがよくわかります。彼らの自己否定は小学校高学年から芽生え始め,中高生で盛んになります。小学5年生の頃から,「このままでは自分は駄目だ」とぼんやりとした不安感を抱くようになり,次第にそれが男の子であれば,「僕はみんなとどこか違う」,「僕は思っていたような万能的な存在ではない」と悩みだします。「成績が上がらない」,「卓球で後輩に負けた」,「僕の身長はもう伸びない」,「僕にはガールフレンドはできない」と不安になり,万能的な子どもっぽい自己愛を圧迫する現実を避けるようになります。「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」で理解できる心理状態が出来上がるのです。自分を脅かす現実に反抗するか逃げるか,の二者択一の道しか残されていません。
女の子であれば友達関係の領域で自己像の不安がはっきりしてきます。友達とのあいだで「誰も私の方を振り向いてくれない」,「誰も私に関心がない」と感じ,友達とのあいだで無視されると夜もよく寝付けなくなります。また,友達の何気ない「あなたなんか嫌い」,「足が太い」,「思ったより重いのね」,「ぽっちゃりしているね」,「子どもっぽいね」,という言葉が心にグサッと来るのです。ここで「理想自我」を克己するのではなく,逆に友達から羨まれるような人間になろうと挑戦する子どももいます。ダイエットを始めるのです。そしてアディクションの「罠」に嵌ってしまうのです。なかには強迫的に「勉強」をやりだし睡眠時間が削れていく者もいます。友達から否定されたその夜に手首を切り,自己愛的な怒りを自分に向ける者もいます。そして何か傷つくことがある度にリストカットで憂さ晴らしをする罠に嵌ってしまうのです。
男女の差は,男性が自己否定を避けて万能的な「理想自我」を空想に追いかけるという「罠」に嵌ってしまう引きこもり青年になるのと違って,女性は万能的な「理想自我」を現実に追い求めて「現実の自分」を否定するためにダイエットやリストカットという「罠」に嵌ってしまうという違いがあります。男性であれ女性であれ,現実の自分に気づき,駄目な現実的な自分を否定して「理想自我」を空想の中で膨らませていくために,現実のありのままの自分を受け入れきれないでいるのです。
3.自己否定という罠
こうして自己否定がより社会的な自己愛を求める姿にならずに,強迫的に自己否定を求める姿が習慣化されたものがアディクション(=依存)です。何故,将来の社会的な理想像となるべき自己否定ではなくて,アディクションに嵌るような自己否定になるのでしょうか。それは現代の若者のパーソナリティ構造を見るとその仕掛けが見えてきます。
現代の子どもたちは乖離された幾つもの世界で生活しています。代表的なものは現実と空想の2つの世界です。現実のストレスを発散してくれるテレビゲームも空想を補強します。また学校と家庭,家族と一緒にいるときと1人のとき,友達とのあいだでも自分を変えているのです。あちこちで違う自分を育てて一所懸命社会に適応しようとあくせくしているのです。それが行過ぎるとパーソナリティにスプリッティング(分裂)が生じ,スプリットしたままパーソナリティが形成されていきます。知らないうちに互いに連絡のないばらばらの自己像が形成されていくのです。この状態では本当の自己愛的な満足は得られません。何をやっても嘘っぱちのような気がするのです。心はいつも空虚です。本当に友達と一緒に笑いあうことができません。
それが,思春期になって,自己の矛盾に気づいたり,他者から指摘されたりしたときにアイデンティティーの危機を迎えるのです。そのとき、自分のある部分の意識をなくす(解離と呼ばれる),現実を回避する(引きこもり),現実の姿を変える(ダイエット,リストカット)という防衛を取ります。「現実の自分」が心の中で膨らませていた自己愛的な理想自我の自己イメージ通りではなかったことに気づいたときに,一度この「理想自我」を否定するのではなくて,「理想自我」を守るために「現実の自分」を否定するから将来の自己像に結びつかないのです。「理想自我」は子どもにとって甘い,心地よい,万能感に満ち足りた極上の世界です。否定するのはとても困難なのです。しかもそれに成功して立派になったお手本となる大人も偉人も今はいません。いるのは利己を追い求めている自己愛的な現代の大人たちの姿だけです。
「理想自我」を否定するのではなくて,それからかけ離れた「現実の自己」を否定するために,自己否定という罠に嵌ってしまうのです。典型的な病態には,以下のようなものがあります。
@リストカット症候群
若い女の子に多い,現実の自己愛の傷つきとその心の痛みを身体の痛みで癒す行為
嫌われた,無視されたことがきっかけになる,痛みを感じず名状しがたい恍惚感
それが強迫的に習慣化される
A摂食障害
やせ願望と肥満恐怖からダイエットや強迫的な身体運動
過食と嘔吐。一部境界性パーソナリティ障害を合併
B家庭内暴力
学校での自己愛的傷つきから登校拒否,それを親から無理に勧められて暴力を振るう
男の子に多く,暴力が自立への一歩になることもあるが,多くは家に引きこもり,親を奴
隷のように扱い,自分の思い通りにならないと暴力を振るい続ける
C境界性パーソナリティ障害
若い女性に多い,特殊なうつ感情(アンへドニア,虚しさ,淋しさ),見捨てられ不安,
不安定な対人関係(理想化と脱価値化),自己破壊的で衝動的な行動(リストカット,大
量服薬,過食),一過性の精神病エピソードなどの多彩な症状が特徴。治療は長期に及び
とても難しい
D引きこもり青年
裸の自己愛(理想自我)が傷つくのを怖れて引きこもる青年,生活はネットやゲームにはまり,「臆病な自 尊心」と「尊大な羞恥心」という特殊な心理状態
V.予防と援助
1.予防:自我の芽生え(小学校4年)までの詰め込み教育と競争が重要
小学校4年生までの教育と子育てが大切です。5歳から小学4年までを潜伏期と呼びます。この時期は,心理的にもっとも安定した教育の基礎に適した時期です。この時期に「理想自我」でない「現実の自分」に気づいてもへこたれないタフな心が形成されていたらよいのです。自我の芽生えの時期に自分本位の自分作りから世界を意識した自分作りが始まります。タフでないと生きていけません。この時期に,両親の離婚,転校,いじめ,先生の誤解による自己否定があると,将来に続く劣等感と慢性の抑うつに彩られたパーソナリティが形成されるのです。
そうならないためには,自我の芽生えまでに,十分な詰め込み教育とその中での競争が大切になります。江戸時代の子どもの教育は,武士の子であれば藩校で,農民や町民は寺小屋で受けました。寺小屋の授業は朝の8時から昼の2,3時まで行われ,休みは今の小学生が年間150日であるのに対してわずか半分しかなく,子どもにみっちり勉強させていたようです。今の学校ではこの競争がおろそかにされているので,来る思春期に耐えるだけのタフさが備わっていないのです。
2.「理想自我」から「自我理想」へ
自己否定の罠に嵌らずに自我理想をもつことは可能なのか?私の臨床経験から以下のようなことで子どもから大人へと成長していくのではないかと考えています。
1)思春期における奉仕活動
奉仕とは,ギリシャ語で「ディアコニア」と言い,汚濁を通してという意味があります。 当時はうんことおしっこの世話をすることが奉仕だったのです。神戸阪神大震災で日本中の多くの若者がボランティアで神戸に駆けつけました。おそらく彼らにとって,他者にとって自分の存在の価値を再発見する「機会」になったのではないかと想像されます。自己中心的な世界とはまったく異なる利他主義の世界です。「理想自我」を捨てるよい機会になるのではないかと思います。私にとっては医学部3年生の「解剖学」が同様の機会になりました。身を捨てて将来の医学の発展に献体するという意志に出会ったときでした。「己の欲を捨てて,患者のために働こう」と決心しました。そのときに私の「理想自我」のある部分は否定されたのではないかと思っています。
2)New Object「バン」との出会い
思春期におけるアイデンティティー形成に必要な家庭外の理想的な対象New Objectを私は「バン」と呼んでいます。私の育った土地では家庭外のしかもその土地で親しまれ尊敬される青年を「バン」と呼んでいました。朝鮮語の「班(バン)」に由来し,「バン」の上に「ヤンバン」といわれる賢いバンがいます。わたしたち子どもは「バン」と一緒に遊び,知らず知らずのうちに「バン」をモデルに自己形成の道を歩んでいったのです。こうした現象は今日でも生きています。例えば,『ヤンキー母校に帰る』の著者の義家弘介は中学生の頃はバリバリの悪たれのヤンキーでした。しかし彼は高校で哲学に触れ,彼に夢を抱きずっと信頼し続けてくれた女性教師に出会ったのです。金八先生が人気番組なのもそうした理由からです。
この時期の嘘隠しのない真剣な一個のパーソナリティのぶつかり合いはその後の若者の人生によい影響を与えます。「バン」の特徴は,その土地の者,特に両親がバンを高く評価していること,バンは子どもたちに遊びを教え,祭りの運営を通してその土地の文化を伝承していく,子どもたちを信頼し長所を指摘する,ということです。こうした「バン」との出会いは子どもたちに確かな羅針盤を与えると思います。しかも「バン」自身が子どもだった頃に経験した悲しみを抱えていることが子どもたちに共鳴を与えるのです。思春期にあるパーソナリティに出会うことは子どもっぽい「理想自我」を捨てて「現実の自分」を受け入れる機会になるのではないでしょうか。
3)「自己否定」の裏に子どもっぽい「理想自我」の存在があることを受け入れる
「現実の自分」の自己否定の裏には「理想自我」を守ろうとする心理機制があるといいましたが,それを「子どもっぽい」と言って唾棄しないことは大切な気がします。思春期は失敗しながら成功を重ねて成長していくものだからです。でかい人間に出会わない限り,パーソナリティは耐えられる幻滅を繰り返しながら成長していくものだと思います。この「それほど自分は一角の人間ではなかった」という自己洞察は彼の強靭な精神を形成するものになります。ただそれには時間がかかるのです。その自己形成の場と時間を保証するのが親の仕事ではないかと思います。
W.まとめ
以上,引きこもり青年,リストカット症候群,過食・嘔吐症,種々のアディクション,境界性パーソナリティ障害の治療から得られたキーワード「自我理想」と「理想自我」を駆使して,「理想自我」を空想の中で膨らませて「現実の自分」を否定するというやり方では一向に社会的な「自我理想」を描くことができないことを説明してきました。「現実の自分」を受け入れないで「理想自我」を肥大させていくためにアディクションという「罠」に嵌ってしまのです。この社会から引き離されていく過程はとても恐ろしいことです。しかし,彼らにも「理想自我」を克己するチャンスはあります。この「罠」から救い出すためには,彼らが「理想自我」を追求していることを理解し,かつそれを否定しないパーソナリティとの出会いが大切であること,さらには「理想自我」の幻滅に耐えられるタフな精神力は自我の芽生えの小学4年生までの競争のなかで形成されること,思春期には利他的な奉仕体験が「自我理想」を描くチャンスになることを述べてきました。
2017年07月09日
精神科読本14「思春期における自己否定という罠」
posted by 川谷大治 at 13:15| Comment(0)
| 日記
この記事へのコメント
コメントを書く